シルクロードといえば、中国からローマまで続く交易路である。中国以外で生産することが難しかった絹の交易のために発達したシルクロードは東西文化交流の重要な通路でもあり、西方の文明を中国に伝播する役割も果たした。我が日本で絹と言えば、ペリーの襲来以降の開国で、海外に輸出した主要な産品として歴史の授業で学んでいる。すると、絹の生産地から港までの輸送路はシルクロードと言うことになる。当時養蚕が盛んであったのは多摩・秩父・甲州地方で、そこから八王子や原町田経由で、輸出用の生糸が横浜港へ大量に運ばれている。それが今回訪れる八王子絹の道である。
JR片倉駅は、利用客に対する便宜と言うことを全く考えていないのだろうか。ふつう駅と言えば周辺の地図を掲示したり、主要な観光地の紹介や案内をするものだが、それが全くない。初めてこの駅を利用する者は必ず右往左往するに違いない。そんなこともあろうかと、今回は25000分の地図のコピーを持ってきていた。山では道に迷うことはないが、住宅地では道に迷うことが多い。道に迷うのは道があるからで、山では一本の道を歩いていればいいが、住宅地では道だらけでわけが分からない。地図がなければ必ず迷うのである。
改札を出て左手に行くとバスターミナルのような広場がある。その左手に小山のようなものが見えるが、それがどうやら
片倉城跡のようだ。その方に向かって歩く。住宅地の狭い通路を通り抜けると国道16号線があり、それを渡る。小山の取り付きが分からないが、派出所の横に山に向かって道が延びているので、それを進んでいく。やがて片倉城跡の指導標があった。
登りはわずかで、すぐに頂上に着く。二の丸広場と本丸広場があり、施設は何もなく、単なる広場が広がる。人は少なく、夫婦で散歩していたり、ヨガのような体操をしている人がいた。案内板によると、片倉城は室町時代に大江広元を祖先とする長井氏によって築かれたそうだが、歴史的にはほとんど不明らしい。太平洋戦争中は、高射砲の陣地があったようだが、今はその面影すら残っていない。昭和47年に片倉城趾公園として開園している。
本丸広場から北の方へ下っていくと、
住吉神社がある。室町時代初期に片倉城主毛利師親が城の鬼門除けとして大阪住吉大社を勧進したのが始まりと伝えられている。更に下ると彫刻広場となり、いくつもの銅像が広場を取り囲んでいる。東の方に水車小屋があるようなので、遊歩道を歩いていく。水車は山から引いた水で回っていた。小屋の中には入ることはできなかったが、何かをつく音も聞こえなかった。水車小屋から山の手に少し登ったところに見返台があり、そこからは枯れ木越しに住宅街が見渡せる。広場では園児達が歓声を上げながら走り回っていた。
片倉城跡公園を出て、国道16号線を片倉駅方面へ戻る。線路の高架をくぐり、左の道に入るとその先に用水路がある。用水路に架かる釜貫橋を渡り、50mほどで左手に野菜の無人販売所がある。こんな住宅地のど真ん中に無人販売所も珍しいが、その先には小さな畑が見られた。この時の販売所は何も置いていなかった。
無人販売所の先に、慈眼寺入口と書かれた看板がある。その方に歩いていくと、
曹洞宗慈眼禅寺の山門がある。両脇には金剛力士像が構えている。
慈眼寺入口を左にまがり、住宅地の中を道なりに歩いていくと、大通りに突き当たる。そこを左に曲がり、左手に石橋入緑地があるので、そこを通り抜ける。再び大通りに出るので、それに沿って歩き、左手に北野台若葉公園を見て、右手の白山通りに曲がる。道なりに登っていくと白山神社の入り口があるので、そこを左に入る。右手には空き地が広がり、祠がいくつか建っている。まさかそれが白山神社かと思ったが、そうではなく、その奥に立派な神社が建っていた。
白山神社の創立年代は明かではないが、平安時代に比叡山、西塔の僧武蔵坊弁慶の結縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の中の一社であると伝えられている。
白山神社は通り抜ける感じで奥に進む。雑木林の中の長い階段を下りると、再び住宅街に入る。車道を右に折れ、しばらく道なりに歩く。左、右と道はカーブしながら上り、突き当たりを左に進む。やがて左手に携帯アンテナの鉄塔が立つ山が見えてくる。それが大塚山である。そのまま大塚山に向かっていくと、左手に階段が見えてくる。
階段を途中まで登ると、住宅街を見渡すことができる。色とりどりの屋根瓦の家が整然と並んでいる様は見事である。階段を登り切ると、案内板があり、大塚山道了堂境内の昔の鳥瞰図や周辺各地の説明が書かれている。しばらくこれを読み、右手の頂上へ向かう。途中、石碑が倒れて地面に半分埋まっているが、特に説明もなくロープで囲まれている。
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【大塚山頂上】
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【絹の道入口】
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大塚山は標高213mで、二等三角点がある。道了道の跡地だったらしく、礎石や石灯籠が残っている。先ほどの案内板の所に戻り、そのすぐ隣には
絹の道の石碑が立っていた。そのすぐ隣ではさっきからおばちゃん達が井戸端会議をしている。この石碑のとこからが残された当時の絹の道であるらしい。ようやく土の道を歩くことができ、歩いていると眺めの良いところに出る。そして道標は片倉駅を指している。どうも道が逆のようだった。引き返して、おしゃべりを続けるおばちゃんに、資料館の方向を確認するとやはり逆の方だった。
旧絹の道はわずかだった。10分ほど歩くと道は舗装道に変わった。絹の道入口があり、庚申塔が三基立っている。ここの説明によると、「絹の道」という名称は、地域の研究者が昭和20年代末に名付けたそうだ。そのまま道なりに歩いていくと左手に絹の道資料館がある。
【絹の道】
明治初期の頃はこの道を馬や人の背に絹を乗せて歩いたのだろう。そんなことを空想するのもつかの間で、道はすぐに舗装道へと変わる。
【大塚山の眺望】
ここは間違った方の道。しかし眺望が良かったので災い転じて何とやら。すぐ下には八王子バイパスが走っている。
【絹の道資料館】
入館料:無料,開館時間:9:00〜17:00(3〜10月),9:00〜16:30(11月〜2月),月曜日休館
平日だからだろうか、資料館には誰もいなかった。入館は無料で、名前だけ記帳する。館内は土足禁止でスリッパに履き替える。展示室内には絹の道や鑓水商人、製糸・養蚕に関する資料が展示されている。あまり貴重なものはないが、天井板(ここでは立てかけてある)に書かれた飛龍の絵は見応えがあった。
次に永泉寺へ向かった。資料館からは10分あまりの住宅地の中にあり、分かりづらかった。
永泉寺は、1555年に甲斐武田族の永野和泉が鑓水に移住し、高雲山永泉庵としてその基を開いている。
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【永泉寺】
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【小泉家屋敷】
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永泉寺から
小泉家屋敷へは柚木街道の谷戸交差点を渡ってすぐの右手にある。入り母屋造りの瓦葺きで、古くからある典型的な民家である。この屋敷は現在でも民家として使われ、都の有形民俗文化財に指定されている。
予定した見どころは全て見終わり、帰途に着く。小泉家屋敷から一番近い駅は、京王線南大沢駅となる。バスに乗ることもできたが、歩くことにした。柚木街道を東に進み、車用の指導標に従い大田平橋を右折する。高層マンション群の谷間を歩き。左手の階段から遊歩道に上る。左手の都立大学を回り込みながら歩いていると、人の流れに巻き込まれ、駅に到着する。駅周辺は一大ショッピングセンターとなっており、この周辺一番の賑わいを見せていた。